崎浦地域と文化的景観の価値

 
新上五島町の東部に位置する赤尾、友住、江ノ浜の各集落と頭ヶ島を合わせた範囲を崎浦地域といいます。
 この「崎浦」という地名ですが、国土地理院の地図には記載がありません。また江戸時代後期に作られた「伊能図」の中にも記載がありません。古文書では江戸時代の末期あたりからみられ、また、明治時代以降になるとこの地区にある学校の校区範囲にその名称が使われるようになりますが、詳細は不明です。
 平成24年の9月、国の文化財保護制度である「重要文化的景観」に崎浦地域が選定されました。地域に根ざした石文化が集落の景観に良く現れていることが価値として評価され、選定されました。同年の1月には北魚目地域が「新上五島町北魚目の文化的景観」という名称で選定されていますので、この新上五島町では2件目の重要文化的景観地域がいうことになります。
 さて、幕末以降、この崎浦地域では海岸に露出する砂岩質の五島石を採石し、石材業が発展しました。加工された石材は問屋等を通じて西九州で広く流通し、嘉永5年(1852)に建立された平戸市の普門寺常盤蔵の銅製銘板には、「五島封内頭嶋石」という文字が刻まれており、頭ヶ島の砂岩を使ったことが確認できるほか、平戸市の家屋や長崎市などにも石畳等として流通したといわれています。
 大正時代に入ると、長崎県松浦市の鷹島で算出される「黒島石」と「阿翁石」と呼ばれる玄武岩系統の石が流通されるようになり、墓碑や石塔などでは、砂岩に代わり使われるようになりました。そのこともあって、崎浦地域の石工たちは墓碑などの石碑の製作が主流となりました。『有川町郷土誌』によれば、石碑製作の最盛期は昭和30年頃で、当時事業所数64、従業者170人という記録が残っています。その後、安価な海外産石材の流通や捕鯨船に乗り込む人が増え、砂岩製の石臼や石流し等の生活用品の製作を増やしますが、次第に石材業は衰退していきました。
 集落内には今でも多くの石材製品が残されており、路地の石畳、石臼や石流し等の生活用品、家屋の腰板石や神社の鳥居等の建築用材など、五島石を使った数多くの石材製品を見ることができます。
 このように、崎浦の五島石集落景観は、幕末から近代にかけて五島地方のみならず、長崎・平戸などの西九州一帯に流通した五島石及び石材製品の生産地として、砂岩の高頻度利用の状況がみられる文化的景観です。

 

崎浦の石文化のはじまり

 次に崎浦の石文化のはじまりを考えてみます。
 崎浦地域における石材業がいつ頃から始まったのかということですが、それほど古い時代ではないとみられます。江戸時代も終わりに近い嘉永、安政の頃に平戸から石の技術が伝わったとみられ、この伝承には、江ノ浜集落の「利吉」という人物が関わっていると伝わります。利吉が平戸に行き、石に関する技術を習い、それを江ノ浜に伝えられたといわれます。平戸島中部にある木ヶ津集落には普門寺という寺院がありますが、この寺は松浦氏ゆかりの寺で、広い境内には立派な庭園もあります。その境内背後の小高い一角に常盤蔵という石蔵があり、嘉永5(1852)年の完成で、切石を積み上げた、ちょうど頭ヶ島天主堂のような石壁をもつ建物です。その内部には銅板製の額があり、「五島封内頭島の石を積んで障壁とし」という旨の蔵の由緒が刻まれています。このことから、石蔵の工事を行っていた時期に江ノ浜の利吉が崎浦産石材と共に平戸に来ていた可能性が高いと考えられます。利吉は安政6年(1859)没で江ノ浜墓地には力強く立派な蓮華座のついた墓碑が建てられています。ちなみに江ノ浜墓地には亀山社中所有であった「ワイル・ウェフ号」遭難者の墓碑もあります。この墓碑は慶応2(1866)年のもので周辺の砂岩製で江ノ浜石工により建立されたと考えられます。

 江ノ浜集落の入口には江ノ浜神社が鎮座していますが、本殿に向かい、3基の鳥居が建てられています。これら3基の鳥居はそれぞれに時代、石材、石工が異なり、崎浦地域の石材業を象徴しているとともに、石材業の変遷がよく顕れています。まず、本殿にいちばん近い鳥居ですが、石材は砂岩ではなく、有川付近で産出される凝灰岩で、有川神社の鳥居の石と良く似ています。また、この鳥居を作ったのは「有川石工 貞治朗」と刻まれており、有川で採れる石を有川の石工が加工して天保15年(1844)に奉納されました。真ん中の鳥居は、崎浦産砂岩で出来ており、作った石工は石田□□とあります。したがって、真ん中の鳥居は、崎浦の砂岩を使い、崎浦(江ノ浜)の石工が加工し大正3年(1914)に奉納されました。いちばん外側の鳥居は、長崎県松浦市の鷹島で産出される鷹島石(阿翁石)で崎浦の石工組合が作り、昭和41年(1966)に奉納されています。砂岩は磨いても光らないし、風化もし易いことから、石碑や墓碑などには敬遠されるようになり、これに代わり、加工がしやすく光沢の出る鷹島石(阿翁石、黒島石)が石碑の主流になることから、その鷹島石で鳥居が作られたと考えられます。この3基の鳥居には、まさに崎浦における使用石材の変化が如実に表れているということになります。


 これらのことから判ることは、天保15(1844)年の頃には崎浦地域においては、まだ積極的に採石がされておらず、専門的な石工がいなかった可能性が高いということで、それから8年後の嘉永5(1852)年に平戸の普門寺では頭ヶ島の石材を使って石蔵を作っており、江ノ浜の利吉が参加していた可能性があります。ワイル・ウェフ号遭難者の墓碑は慶応2(1866)年に崎浦の砂岩を使い、崎浦の石工が加工していることから、普門寺石蔵が完成した嘉永5年(1852)からワイル・ウェフ号遭難者の墓碑が慶応2年(1866)に出来るまでの間に崎浦に石材業が本格的に始まった可能性が高いということになるのではないでしょうか。
 明治時代に入り、洋風文化が導入されると人力車用舗装材としての石畳、軍などの倉庫の石壁材、洋風建築の用材など当時の時流に乗り、砂岩材料の需要が大きくなり、大正時代にかけ石材業が盛んになっていったとみられます。


崎浦では主にどのような製品を作っていたのか

 「砂岩」の一般的な特徴は、「比較的柔らかく均質で加工がしやすいが風化もし易い」「堆積岩であるので、層できれいに剥がれる(割れる)」「比重はそれほど大きくない」「熱に強く花崗岩のように熱割れしない」「吸水率が高いので汚れが付き易い」「磨いても光沢がでない」など、一般的に砂岩はこのような特徴をもっています。しかし、崎浦地域の砂岩は産出する場所や層にもよりますが、良質のものは比較的硬く風化が少ない傾向をもっています。このような特徴を利用した砂岩の加工を考えると、石畳に使う敷石のような板状の石に加工することが最も適しているといえます。また、柔らかめの石であれば、搗き臼や、石流しなどの加工品に向いています。さらに柔らかい石では砥石などとして利用が出来ます。崎浦地域の石材業では島外向けとしては主として、「五島石」の名前で石畳用の板石を出荷していたようで、社会情勢の変化で石畳の需要が減ってくると、鷹島石を使った墓碑や石塔を中心とした加工製作に移っていきました。また、石畳用の板石の需要が減った後は、砂岩製の搗き臼や石流しなどの加工品を大量に売ったそうです。その後、墓碑製作では国内産の御影石を使用するようになり、後には安価な海外産の輸入石材の使用に変わりました。


崎浦の石文化の特徴はどこに顕れているのか

 赤尾、友住、江ノ浜の集落は同じ崎浦地域でもそれぞれに異なった特徴を持っています。まず、赤尾集落ですが、板石の製作を得意とし、石垣積みや、石を採り出す仕事も得意としました。後には墓碑などの製作もかかわってきますが、赤尾の石材業は石屋の中でも「荒石屋」といわれる職種が得意分野でした。次いで、江ノ浜集落では昔から墓碑や石塔などの加工が得意な集落です。いわゆる「石塔屋」といわれる仕事で、数多くの石塔を製作し、五島列島全体をはじめ、長崎、平戸などにも多くの石碑を供給しました。さらに、友住集落で特徴的なのは港の役割があったからかもしれませんが、友住出身の人が長崎に問屋を開き、石材の流通にかかわる仕事をしていたことです。もちろん、友住でも石碑や石像なども作っていました。なお、意外なことに頭ヶ島には立派な石造教会堂が造られたにもかかわらず、石工あるいは石材業が育つことがありませんでした。このように、同じ崎浦地域にもかかわらず、それぞれの集落で役割分担とでもいえそうな石材業の特徴をもっていたことが大変興味深いところです。
 各集落を訪ねると、それぞれの景観に特徴があります。まず赤尾では民家の腰下に板石を立て掛けるように張りまわした「腰壁板石」が特に数多く残されています。崎浦に見られる「腰壁板石のある民家」は他では見られない特徴的なもので、この島独特のものである可能性が大きいものです。島外でこの腰板石のある民家があるのが見つかったのは、平戸市中部西海岸の根獅子集落の近辺だけで、これは板石の流通とともに、腰板石の技法も伝わったものと考えられます。根獅子では「ごといし」と呼びますが、漢字でどのような文字で書くのか尋ねても、わからないそうです。崎浦ではここで使われている砂岩のことを「ごとう石」と呼んでいます。

 次に友住集落ですが、石畳と石塀が特に良く残されています。友住では自動車の通る道は石畳を外されてしまいましたが、自動車の通らない細い路地には、奥の方まで石畳が敷き詰められています。また、様々な形態の石塀が残されているのも特徴で、各家で石塀の形状が異なること特徴です。さらには、友住集落の石垣を見ると、小さな石で高い石垣を見事に積み上げている場所が多くあります。
 そして、江ノ浜集落では土地が砂地のため、石畳が早くになくなってしまいましたが、石碑製作などの細工物が得意なだけあって、手の込んだ井戸上屋や、石の柱をもった小屋などがあるなど、赤尾や江ノ浜とは少し趣が異なった要素をもっています。腰壁板石のある民家ですが、友住や江ノ浜にも数は少なくなりましたが、腰板石を張りまわした建物が見られます。
 それでは、頭ヶ島はどうでしょうか。頭ヶ島には石工が育たなかったことは前述しましたが、地元の砂岩を使った見事な石造教会堂が残されています。この石造教会堂が完成したのは大正8年(1919)で、まさに崎浦地域の砂岩を利用していた時期の石材業の最盛期と考えられ、赤尾や友住の石工も工事に参加しています。石畳や腰板石など小ぶりで地味な印象の崎浦の石材業ですが、頭ヶ島教会堂は美しく、堂々とした建物です。まさに崎浦の石材業の頂点と位置付けされる建造物といえます。また、頭ヶ島教会の境内地には司祭館の柱や外壁、門柱、石柵、石垣などいずれも砂岩が利用されたものがよく残されています。こういったところにも崎浦地域ならではの石文化がよく顕れています。

石造教会堂の建設理由

 頭ヶ島教会堂は明治43年(1910)頃に着工され、最終的に計画を変更して付け加えることとなった塔の部分が大正8(1919)年に完成し、4月3日に上棟式が行われました。頭ヶ島周辺ではたくさんの砂岩が産出されたことから、頭ヶ島教会堂の建設にあたり、この砂岩が着目されたのは、ある意味自然であるといえます。これは一説として、発注者で当時の主任司祭であった大崎八重師が天草出身であることから、天草でも採れる砂岩に着目したためともいわれます。しかし、それだけの理由から石が使われたのではないようです。一見すると頭ヶ島教会堂は多額の資金を掛けて建設されたように思われますが、当時の頭ヶ島の信徒たちは、教会堂をつくる資金に大変苦労したといいます。従って、なるべく少ない資金であっても、立派で長持ちする自分たちの教会堂を建設したかったはずです。
 そこで、当時地元で盛んに産出されていた砂岩に着目し、石を使って教会堂を作ることになったようです。砂岩は御影岩や大理石などとは違い、それほど高価でありません。また、当時盛んに建てられていたレンガ積みの教会堂と比較しても、例えば大人が両腕を広げたくらいの長さの壁石であれば、レンガを70~80個積まなくてはなりません。石を積む時に重く施工が大変であることを差し引いても、レンガ積みより手間やモルタルが少なく済むし、工事も単純化出来ると考えることもできるかもしれません。加えて、地元崎浦の石工や信徒たち自らが工事に参加することで、建設資金を大幅に少なくすることが出来たと考えられます。それでもこの規模の教会堂で10年の歳月が掛かったのは、途中で資金不足のために工事の中断が幾度かあったためといわれています。
 頭ヶ島教会堂の設計施工をしたのは上五島出身の鉄川與助といいます。鉄川與助は生涯で50棟以上のカトリック関連の建築に関わりましたが、頭ヶ島の工事の頃には盛んにレンガを使って教会堂を建設していました。明治41(1908)年から大正7(1918)年の間に木造の教会堂も建設しながら、野崎、青砂ヶ浦、今村、大曽、田平などの教会堂をレンガ造で完成させましたが、頭ヶ島教会堂は石造で建設されました。レンガの教会堂と石の教会堂を単純に比較することは出来ませんが、例えば青砂ヶ浦教会の規模のレンガの教会堂の建設費が当時のお金で一万五千円から二万円くらいとすれば、頭ヶ島教会堂の建設費は千円か二千円程度だったといいます。単純な比較は出来ませんが、相対的にみて建設費用が少なかったことがよく判ると思います。
 頭ヶ島教会堂は建設資金が厳しいことから地元の石を利用することとなりましたが、ただ石があるだけではあれほど立派な教会堂を作ることは出来ません。ちょうど建設の時期が崎浦の砂岩を利用した石材業の最盛期であったこと、あるいは崎浦の石文化が成熟していた時期であったことで少ない資金で立派な石造の教会堂を作ることが可能であったわけです。加えて鉄川與助の設計力やマネージメント能力があったことも大きな要因といえます。いずれにしても頭ヶ島の教会堂は崎浦の石文化の頂点であるといえます。



崎浦地域の石文化
 
 崎浦地域の石文化は地域から産出される砂岩を使い、砂岩の持つ性質を上手に利用することで特に板状の石を製品として主に長崎や平戸をはじめ、西九州各地に出荷されました。これまでは、長崎の石畳や洋館の石壁などは天草から持ってきた砂岩と認識されてきましたが、上五島の崎浦地域から産出された砂岩も使われていると考えられるようになりました。砂岩はそれほど高価な石ではないため産出地の集落にもたくさん利用されました。高価な石であれば自分で使うこと控え、商品として出荷することを優先するはずです。そういった集落内に利用された砂岩の景観を私たちは現在でも見ることができます。特に腰壁板石を縦長に張りまわした民家は上五島独自のもので、他では見られないとみられ、建築学的にも大変貴重な技法といえます。
 新上五島町には2つの文化的景観地域がありますが、そのひとつ、北魚目地域にも石文化はあります。無数に造られた段々畑の石垣をはじめ、防風石垣、石壁の小屋などを見ることが出来ます。これもひとつの石文化なのですが、崎浦の石文化との大きな違いがあります。いちばんの違いは、崎浦の石文化は商売を基本とする石文化です。つまり、それを商売としている専門の石屋がいることです。北魚目地域の石文化は自分たちが生活するためのもので、商売にしたものではありません。
また、産出される石材性質の違いが景観として顕れているともいえます。