伊能図に見る漁業集落と未開の土地 上五島は古代より東シナ海に望む西海岸を中心として大陸との交易の中継点として栄えました。また中世以降は豊かな漁場を背景として漁業が盛んでありました。しかし、北魚目地域の番岳以北においては大きな集落は少なく、わずかに半島先端部の津和崎が中世以来開かれ、また立串が慶長年間に越前の柴田一族による定住を境に発展した集落であった程度でした。このほかに、小瀬良および大瀬良の沿岸部に塩竃のある小さな集落があったと考えられます。いずれも、漁業あるいは塩竃に関連した集落で、これらの集落には神社や祠が祀られています。 この津和崎と立串の間にある山間部は江戸時代後半以降になって大村藩からの農民移住があるまでは、人の住んでいない状態であったとみられます。これは江戸時代中期に描かれた絵図(貞亨5年図、元禄2年図)においてこの場所が山として描かれ、人家の描写がないことからもその一端を知ることができます。 伊能忠敬が測量をおこない作製された「大日本沿海興地全図」が有名ですが、伊能忠敬の測量隊は文化10(1813)年に五島列島の測量をおこないました。「肥前五島沿海上」には北魚目の状況も詳しく描かれています。この地図は文化10(1813)年測量時の状況を表していると考えられますが、まさに大村藩からの移住初期にあたり、移住初期の状況が表現されていると考えられます。 この伊能図によれば、番岳以北の北魚目地域においては津和崎、立串が比較的大きな集落として描かれていますが、その他には小瀬良、大瀬良に家屋が表現されており、それぞれ「字小瀬良」「字大瀬良」と集落名が記載されています。 さらに詳しく見ていくと、他に仲知集落の位置に「字中知」とありますが、家屋の表現はされていません。また江袋集落の位置には集落名(字名)の記載がありませんが「江袋濱」と浜の名称が記載され、海岸部から一段奥まった(一段高い)土地に家屋の表現がなされていることがわかります。この場所は現在の江袋集落になりますが、まだ集落として周辺より認知されていないが、家屋が存在した状況を表わしているとも考えられます。まさに大村藩からキリシタンの農民が移住を始めた初期の段階ではないでしょうか。伊能図にみられる移住初期における各集落の状況
上図はいずれも伊能図における北魚目地域の集落の状況である。前述のように伊能忠敬一行が上五島・北魚目を測量したのは文化10年(1813)であるので、絵図に見られる集落のすがたはその当時ということになります。また、大村藩外海地方から上五島地域に対し本格的な移住が始まったのは公式移住完了後の寛政11年(1799年)以降です。従って地図に描かれたすがたは移住から間もない時期のすがたであると考えられます。ただし、注意点として伊能隊の測量は原則として沿海の輪郭を測ったものであるから、内陸部については測量上の側点を求めた場合や、海岸線から見える範囲が描かれていると考えるのが自然です。したがって、大水集落のような海岸線から見えにくい内陸の集落については正確さに欠けるとも考えられます。次にそれぞれの集落ごとの当時の状況をみてみます。 津和崎・米山集落 A図 オレンジ色に描かれているのが家の屋根を表している記号のようなもので、家屋の存在が表現されています。屋根型が比較的数多く描かれているので、ある程度まとまった集落があったことは間違いなとみられます。米山周辺については家屋の表現がされていないので人が住んでいない場所になります。 竹谷・一本松集落 B図 竹谷、一本松の付近には家屋の表現がありません。現在の竹谷は、測量日記では滝谷と記述があります。 仲知・赤波江・江袋集落 C図 仲知は地名が「字中(・)知(・)」と描かれていますが家屋は表現されていないので、まだ人が住んでいないようにみえます。赤波江の付近の瀬には「赤波石」との表記がありますが、家屋などの表現はなく、人が住んでいないようです。江袋には「江袋濱」「ミサゴセ」などの表記がありますが、字名は記載がありません。ただし、海岸から一段高い位置に屋根型の表現があります。 大瀬良・小瀬良集落 D図 大瀬良、小瀬良ともに「字大瀬良」「字小瀬良」と字名の表記があり、海岸付近に少ないながらも屋根型の表現もあります。また、両集落ともに耕作地とみられる表現もみられます。 大水集落 E図 大水集落付近の海岸には「大水鼻」と表記があるのみで内陸に家屋表現などがありません。 立串集落 F図 立串については家屋記号が多数描かれており、この時代にすでに北魚目の中心であったことがわかります。また、周囲のわずかに耕作地とみられる表現もされています。立串鼻南面においては、立串発展させた柴田家周辺の家並みも表現されています。集落景観をつくる特徴的なもの
北魚目地域の集落景観としての大きな特徴は農業集落と漁業集落の住み分けと前述しました。それらの集落においては、家屋の並び方にも特徴があります。「地下」の漁業集落では海岸線沿いの狭い土地に肩を寄せ合うように軒を連ねる集住形態の集落を形成しています。それに対して移住者「居付」の農業集落では狭い範囲に集中せずに点在する散村集落のかたちを形成しています。このように散村型の集落になった要因ですが、移住した人々の生活は各々の家屋の周囲を畑とし、農業では共同作業も少ないため、まとまって住まう必要性が少なかったからと考えられます。その一方、漁業集落では海岸沿いの狭い平坦地を利用し、仕事の場は目の前の浜と大海原になります。仕事場に近い狭い土地であり、なおかつ共同作業が多い漁業ではまとまって家を建てることが都合が良いし、自然であると考えられます。これらのことは北魚目地域に限らず、一般的な漁業や農業の集落のあり方なのですが、北魚目地域ではこのふたつがわずかな距離を置いて隣り合うため、そのことがより明確に対比することになるのです。
それではそれらの集落、特に農業集落の中にみられる特徴をあげていきます。キリシタンに由来する移住民の農業集落では集落内に石祠などの祭神がまったく見られないのも大きな特徴のひとつです。「地下」集落には氏神様や各種の祠などの祭神が見られますが、「居付」集落には現在まったく祭神が見られません。「居付」集落はキリシタン由来であるから当然かもしれませんが、元来あったものを撤去したのでもなく、もともと人が住んでいなかったことの顕われとも考えられます。ただし、例外があります。それは江袋集落においては天保14年(1844)に天満宮を勧進した記録があり、明治初年までのわずか25年たらずの期間ですが、曽根に遷宮するまでは集落内に神社がありました。
「居付」の移住集落ですが、風当たりの厳しい斜面地を開拓した土地であることから、防風対策として大木を切り残したり、防風林を植えたり、防風のための石垣塀を築くなど場所に応じ、そこで生活をするための工夫をこらしました。土地を開墾したときに出てくるたくさんの石を利用して段畑の石垣積みを築くのですが、同時に家や畑の周りに石を利用して防風のための石垣や石塀も築きました。また、家屋や小屋の壁を石積みとして石を利用するなど「石積みの文化」がみられます。この石文化は移住者の故郷である大村藩の外海地域で育まれたものが人の移住によって伝播したものです。
移住集落の特徴的な生業
「居付」の集落ではたくさんの段畑が築かれましたが、そこでは甘藷(サツマイモ)の栽培が中心でした。荒れた斜面地ですが、水捌けがよいため甘藷の栽培には非常に適した土地でもありました。この甘藷栽培が移住農民の主たる生業で、米作りが非常に少ない土地柄でもあったことで、この甘藷が移住民の命をつなぐ主食でありました。甘藷は痛み易いため、それを一年中食べる工夫がされました。それは、当地(西日本)で「かんころ」と呼ばれる甘藷を薄切りにして乾燥させたもので、痛み易い甘藷を保存食として盛んに加工されました。この「かんころ」を乾燥させる棚を当地では「やぐら」と呼び、各家の庭先に数多く作られました。このカンコロ生産のための「やぐら」は、木と竹で作られ、土地の急斜面を利用して張り出されたもので、床面はわずかに隙間をあけて竹を並べて敷きこんだかたちをしています。これは斜面を吹き上がってくる風を下から受け、乾燥させる工夫で、冬の乾いた北西の季節風が吹く好天日であれば3日ほどでカラカラに乾燥する。この干し棚「やぐら」が各家の庭先に並ぶ景観もまたこの地域の特徴です。さらにはこういった化が現在に色濃く残されるのもこの地域の特徴のひとつである。
集落のシンボル 既住の漁業集落では神社や祠などの祭神がみられるが、移住集落では現在、集落内に石祠などの祭神がまったく見られない。その代わりとして潜伏キリシタンからカトリックに復帰した後に建てられた教会堂が主だった集落にみられる。教会堂は復帰当時には必ずしも現在のように集落中心にあったと限らないが、時代が降り、カトリックが社会的に認知されるようになると教会堂は集落の中心となり、信仰の証しであるとともに、集落のシンボルであり、集落人口の定着において重要な役割を果たすようになる。明治10年代の復帰当時では大水集落のように集落中心よりやや離れた場所に創建される例もあるが、その後の建て替えを機会に集落中心の目立った場所に建てられるようになる。 津和崎や立串のような漁業集落では、集落の氏神様にあたる神社(本山神社、乙宮神社)が集落の中心付近に建立されているとともに、金比羅(琴平)神社のように祈願の目的に応じた祭神をそれぞれ適切な場所を選び祀っている。小瀬良や大瀬良では海岸沿いで漁業に関係していた既住の人たちの居住地の近くに塩竃神社や山神社といった社を祀っている。